『ローマ史』55-09

翌年*1、ガイウス・アンティスティウスとラエリウス・バルブスがコンスル*2だった年、アウグストゥス*3は、ガイウス*4とルキウス*5が決して彼の振る舞いを見習おうという気持ちを持たないことがわかって苛立った。彼らは帝室の一員として育てられ、若者に成長していた。非常に贅沢な暮らしに耽っただけでなく傲慢にもなっていた。例えばある時、ルキウスは付き添いを伴わずに劇場に入った。2人は時には誠実に、時には取り入るために首都の誰からも賞賛された。そしてますます甘やかされた。とりわけ市民はガイウスがユウェニス*6に達する前にコンスルに選んだ。これら全てのことが、すでに述べたように、アウグストゥスを苛立たせた。またアウグストゥスは彼自身の場合に起こったような、20歳未満の人間がコンスルになることを必要とするような状況を強いられることが無いよう祈った。それでも市民が要求した時、人は自分の過ちを回避できるだけでなく、人々の熱烈な衝動に抵抗できるようになるまでは公職に就くべきではない、と言った。その後アウグストゥスはガイウスを聖職を与え、元老院の会議に出席する権利、見せ物を催す権利、宴会に参加する権利も与えた。そして、ガイウスとルキウスをはっきりと正気に戻す道を望んで、ティベリウス*7に5年間のトリブーニキア・ポテスタス*8を授けて、ティグラネス*9の死以来疎遠になっていたアルメニア*10へ派遣した。結果として無益に孫達を傷つけただけではなく、ティベリウスをも傷つけた。孫達は軽視されたと感じ、ティベリウスは彼ら*11の怒りを心配した。とにかくティベリウスは若干の教育を必要としたという口実の下ロドス島*12へ送られた。自分の姿や行動がガイウスとルキウス*13の注意を惹かないように、友人達は言うまでもなく随行団も伴わなかった。コンコルディア神殿*14に納めるために、パロス島*15住民にウェスタ*16像をティベリウスに売ることを強いた際に権威を行使した以外では、私人として旅した。ロドス島に着いた時も、言葉と振る舞いの双方で高慢になることを差し控えた。これがティベリウスの海外への旅の真相であるが、ティベリウスが妻ユリア*17にこれ以上耐えられなかったためにこの道を選んだという話もある。とにかく彼女はローマに残された。他の説はティベリウスカエサル*18と呼ばれないことに怒ったというもの、また他にはティベリウスアウグストゥスの息子達に陰謀を企てたのでアウグストゥス自身によって追放されたというものもある。しかし彼の出立が教育のためでも通過した法案に反対だったためでもないことは、その後の行動や特にその時すぐに彼の意志を明らかにし母とアウグストゥスにそれを読み聞かせたことから明白である。しかしあらゆる推測が創られた。
翌年*19アウグストゥスが12回目のコンスルに就任した年、ガイウスがユウェニスに達すると同時に元老院に紹介し、プリンケプス・ユウェントゥティス*20と宣言され、騎兵隊長となることを許した。
〜〜〜〜〜
1年が経過した後*21ルキウスも兄ガイウスに与えられた栄誉を全て手にした。ある場合に市民が共に集まり、ある改革の実施を求め、その目的のためにトリブーヌス*22アウグストゥスに派遣した時、アウグストゥスが来て要求について相談した。この全てが歓迎された。


ローマ史第2巻-99節 ティベリウス引退 - TurkoisYu 緑松石玉