『ローマ史』55-10 (1)

アウグストゥス*1穀物の配給を受ける市民の数を20万人に制限した。これは以前は固定されていなかった。また言われるように各人に60デナリウス*2の施しをした。

散逸
フォルム・アウグストゥム*3はどのように奉献されたか。
散逸
そこにあるマルス*4神殿はどのように奉献されたか。

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マルスに、またアウグストゥス自身と孫達、そして少年時代を終えユウェニス*5に登録された者達は、望む度にそこを訪れるべきこと。
海外への軍団指揮に派遣された者達はそこを出発点とすべきこと。
元老院はそこで凱旋式の授与に関する評決を採るべきこと。
凱旋式を挙行した後、将軍はこのマルスに笏と冠を捧げるべきこと。
これらの凱旋将軍と凱旋将軍顕彰を受けた全ての者は自らの銅像をフォルム*6に建てるべきこと。
敵に奪われた軍旗を取り戻した場合、神殿に置かれるべきこと。
祝祭は各年のプラエフェクトゥス・アラエ*7によって神殿の石段の傍で祝われるべきこと。
釘はケンソル*8の用語に近い立場の者によって打ち込まれるべきこと。*9
元老院議員さえ競馬競技に出場する馬を提供する権利、およびちょうどアポロ神殿とユーピテル・カピトリヌス神殿*10の場合に法で決められているように、神殿の一般経費を負担する権利を持つべきこと。
以上の問題は解決した。アウグストゥスマルス神殿を奉献し、ガイウス*11とルキウス*12に、由緒ある方法で行使されてきた1種のコンスル職権によって全てのこのような建物を奉献する1度限りの権利を与えた。実際彼らはこの時、競馬競技を催し、その間兄弟のアグリッパ*13は「トロイア」と呼ばれる騎馬戦に1流の家柄の子弟と共に参加した。260頭のライオンがキルクス*14で虐殺された。サエプタ*15で剣闘士試合があり、「ペルシア軍」と「アテナイ軍」の海戦もその場で行われた。そこには今日でもいくつかの遺跡が残っている。それらは、お分かりのように、競技者達につけられた名前だった。古のごとく「アテナイ軍」が勝利した。その後、水はキルクス・フラミニウス*16に引き入れられ36匹の鰐がそこで虐殺された。しかしアウグストゥスはこの時期コンスルを務めていなかった。僅かの間この職を保持すると別の者にコンスルの称号を譲っていた。これらがマルスを讃える儀式だった。
アウグストゥス自身へ捧げる神聖な競技はカンパニア*17の都市ネアポリス*18で提案された。名目上、ネアポリス地震と火災によって破壊された時、アウグストゥスが再建したことが理由だが、実際には、住民が、カンパニアで唯一、ギリシアの習慣を模倣しようとしたことが理由である。アウグストゥスは「パテル・パトリアエ」*19の称号を使用する明確な権利も受け取った。と言うのも従来、法の裏付けなしにその称号で呼ばれていたのである。さらにこの時初めてプラエフェクトゥス・プラエトリオ*20にクィントゥス・オストリウス・スカプラとプーブリウス・サルウィウス・アペルの2人を任命した。私も「プラエフェクトゥス」の名をもっぱら彼らと同様の職に就いた全ての人に対して適用する。この言葉は一般的な用語として使われることになった。踊り手のピュラデスは祝祭を催した。年を取っていたので何の演技も行わなかったが、公職の徽章を着け、娯楽の費用を負担した。プラエトル*21のクィントゥス・クリスピヌスも開催した。この時著名な騎士と女性も舞台に上がったのでここに言及した。