『ローマ史』55-10 (3)

*1ガイウス*2は平和にイステル河*3の軍団の指揮を執った。戦闘はなかった。戦争が勃発しなかったからではなく、ガイウスが平静に安全に支配することを学んでいたからだった。一方危険な任務は一般に他の者に割り当てられた。アルメニア*4が反乱しパルティア人*5がそれに加わった時、アウグストゥス*6は苦しみ途方に暮れた。と言うのも彼自身は年齢のため軍事行動には適さず、ティベリウス*7は前述のようにすでに引退しており、他の有力者を送る勇気もなかったのだ。なぜなら、ガイウスとルキウス*8、この2人は若く実務経験がなかったからだ。しかしながら必要に迫られてガイウスを選び、プロコンスル職権命令権と既婚男性が持っているより大きな尊厳を持てるように妻を与え、相談役も任命した。そこでガイウスは出発し、どこででも皇太孫そして皇太子とさえ見なされ、それにふさわしい人物としての栄誉で迎えられた。ティベリウスさえキオス島*9へ行きガイウスの機嫌を取って疑いを晴らそうとした。確かにティベリウスは自らを辱め、ガイウスだけでなく全ての随行者にも平伏した。そしてガイウスはシュリア*10へ行き大成功とは言えない会合の後、負傷した。蛮族がガイウスの滞在を聞いた時、フラタケス*11アウグストゥスに、何が起こったか説明し和平を受理する条件としてフラタケスの兄弟の返還を要求する使者を送り出した。
*12皇帝は返信したが、宛名は単にフラタケスと書き「王」の称号を添えなかった。その内容は王の名を捨て、アルメニアから手を引くことを命じていた。それに対してパルティア人は少しも怯えず概して高慢な調子で返事を書いた。自らを「諸王の王」と称し、アウグストゥスの宛名はただ「カエサル」と書いた。ティグラネス*13はすぐには使節を派遣しなかった。しかしアルタバズス*14がいくらか後に病を患い死ぬと、アウグストゥスに贈り物を届けた。ティグラネスは競争相手が消え去ったという事実を考慮し、手紙の中で「王」の名称には言及しなかったが、実際にアウグストゥスに王位を請願した。これらの理由による影響と同時にパルティア人との戦争を恐れて、皇帝は贈り物を受け取り、希望を持ってシュリアのガイウスに会うよう命じた。


ローマ史第2巻-101節 パルティアとの会談 - TurkoisYu 緑松石玉