『ローマ史』55-10 (2)

これから述べることついてはアウグストゥス*1は公表していない。娘のユリア*2が夜中にフォルム*3やロストラ*4の上での祭り騒ぎや酒宴に加わったという非常に不道徳な行為をとうとう発見した時、大変に腹を立てた。アウグストゥスは以前彼女が正しい生活を送っていないと推測したが、信じようとしなかった。支配者は自分の問題以外のあらゆる事に精通しているものだ。また支配者は周囲の耳目から逃れられないが、彼らが何を行うかについて正確な情報は持てない。当該事例で、アウグストゥスが何が起こっているか知った時、激情に屈してあまりにも暴力的になったのでその問題を隠しておくことができず、元老院に報告さえした。結果、ユリアはカンパニア*5の近くのパンダテリア島*6に追放となり、母スクリボニア*7が自発的に同行した。ユリアと楽しんだ男達については、ユッルス・アントニウス*8がその行為が支配権への陰謀を引き起こしたという理由で他の著名な人々と共に殺された。残りの者は島への追放となった。その中にトリブーヌス*9がいたので任期満了まで裁判にかけられなかった。この事件の結果他の多くの女達も同じ罪で訴えられた。しかし皇帝が全ての訴訟を実行させたわけではなかった。アウグストゥスは特定の日付を限界として定め、その日以前に生じた全てのことについて調査を禁止した。というのも彼は娘についてはむしろフォイベの父でありたかったと言って慈悲を示さなかったが、それでも残りの者は助けようとした。このフォイベはユリアの解放奴隷で共犯者であり、罰せられる前に自ら命を絶った。このためアウグストゥスは賞賛した。


ローマ史第2巻-100節 ユリア追放 - TurkoisYu 緑松石玉