『ローマ史』55-02

アウグストゥス*1はドルスス*2の病気を知るとすぐに(というのも彼は遠くにはいなかったから)、ティベリウス*3を彼の元へ急いで送った。ティベリウスはまだドルススの息があるうちにまみえた。彼が死ぬと遺体をローマに運んだ。旅程の最初期の軍団の冬季陣営まではケントゥリオ*4とトリブーヌス・ミーリトゥム*5に運ばせ、その後はそれぞれの都市の名士が運んだ。遺体がフォルム*6に正装安置されると2度の追悼演説が行われた。ティベリウスはフォルムでドルススに賛辞を送り、アウグストゥスはキルクス・フラミニウス*7で賞賛した。アウグストゥスは軍事行動のために離れていたので、ドルススの功績に敬意を表するためにポメリウム*8の内側に入ることは慣習を無視することとなり不敬虔であった。遺体は騎士達、厳密にエクィテス階級*9に属する人々と元老院階級の家系の人々の両方、によってカンプス・マルティウス*10に運ばれた後、荼毘に付され遺骨はマウソレウム・アウグスティ*11に納められた。ドルススは息子達と共にゲルマニクスの称号を得た。そしてさらに彫像、記念門、レヌス河の岸辺の祈念碑が与えられた。
 ティベリウスは、ドルススがまだ生きていた頃、再び反乱を起こしていたダルマティア*12人とパンノニア*13人を鎮圧し、騎乗の凱旋式を祝し市民を祝宴に招いた。一部はカピトリウム*14で行い、残りは各地で開いた。同時にリウィア*15もユリア*16と共に女達をもてなした。同じ祭典はドルススのためにも準備されており、彼のために2回目の祭日が設けられることになってさえいた。その場合は凱旋式が催されただろう。だが早すぎる死が計画を狂わせた。リウィアを慰めるために彫像が送られ、3人の子供の母親*17として登録された。このように子供がいなくても罰を受けず、大家族が受け取る2,3の特典を除く全てを受け取ることができた。人間に限らず神々もこの特典を喜ぶかもしれない。誰かが死に際して神々に遺産を残した時に受け取ることができるからだ。この問題はここまでとしよう。