『ローマ史』55-10 (5)

しかしアルメニア*1人はティグラネス*2が蛮族との戦いに散り、エラト*3が主権を返上したという事実にも関わらず、彼ら自身がメディア*4のアリオバルザネス*5に譲渡されたためにローマ人との戦争を継続した。アリオバルザネスはかつてティリダテス*6と共にローマに来たことがある。これは翌年*7のプブリウス・ウィニキウスとプブリウス・ウァルスがコンスル*8の時のことである。彼らは注目すべき事は何も成し遂げなかったが、アッドンという者がアルタギラ*9を支配しており、ガイウス*10にパルティア*11王の機密を教える振りをして壁に近づくよう説き、怪我を負わせた。その場で彼は包囲されたが、長い間持ちこたえた。ついにアッドンが捕らえられた時、アウグストゥス*12だけでなくガイウスもインペラートル*13の称号を我が物とした。アルメニアアウグストゥス元老院によってはじめはアリオバルザネスに、少し後の彼の死後に息子アルタバズス*14に与えられた。ガイウスは怪我が元で病気になった。ガイウスは第一に強健ではなく、健康状態が心も害したので、この病気は彼の能力をさらに鈍らせた。ついにガイウスは私生活に退くため休暇を求め、シュリア*15の何処かに留まることも望んだ。アウグストゥスは心から後悔し、元老院にガイウスの希望を伝え、少なくともイタリアまで来てそれから望みを叶えるよう要求した。そこでガイウスは直ちに公職の任務を全て辞し、リュキア*16への貿易船を利用したが、リミュラ*17で他界した。すでにガイウスの死の前に、ルキウス*18の命の火はマッシリア*19で尽きていた。ルキウスも多くの場所の作戦に派遣され統治の訓練をしていた。元老院に出席していた時はいつでも、ガイウスの手紙を読み上げることがルキウスの個人的な慣習だった。彼の死は急病によるものだった。2つの死に関して、疑いはリウィア*20に帰された。特にまさにこの時ティベリウス*21がロドス島*22からローマに帰還していたために。